地震漫談(其の30) 千八百年前の地動儀 今村明恒
ミル ンの名著 「地震」に は張衡 が地動儀 を 創作 したの を 西紀136年 のこと ゝしてある.後 漢書 張衡傳 には陽嘉元年 に候風地動儀 を作 るとしてあるか ら,こ れ は正 しく西紀132年 に當 る譯 であ る.ミ ルンが136年 としたのは何か の誤で あ らう.併 し乍 ら吾 々は永 くこれ に慣れ てゐた爲,今 年は張衡地動儀創作 といふ よ りも寧ろ人類 の地震征服の首途か ら滿1800年に當る ものと信 じ,此 の機會 に於 て何か意義 のあ る記念事業 をやつて見たい と思 つてゐた.例 へば張衡 を表彰 す る意味 を以て其 の徑歴 を調べて之を世 に紹 介す ること,候 風地動儀 を複製 して見 ること,張 衡 に關す る凡ゆ る文獻を搜 して見 る こと等であ る.
《地震》是米尔顿的名著,记载着张衡在西历136年创造了地动仪的事情。《后汉书·张衡传》记载说,张衡在阳嘉元年制作了候风地动仪,因此,正确的日期是西历132年。米尔顿将其记作136年可能是一种错误。然而,我们长期以来习惯了这个日期,今年我们认为不妨将张衡的地动仪创作视为人类征服地震的第一步,距今已有1800年,因此,我们想利用这个机会来做一些有意义的纪念活动。比如,通过表彰张衡的意义来研究他的生平,并向世人介绍,复制候风地动仪,查阅与张衡相关的所有文献等。
此 の何 かやつて見たいの一念 を實行 し始めたのはつい一 月前の ことであるが,其 の手初 めに上 記年次の誤謬が氣附かれ たのである.こ れだけで も何かやつた といふ 申譯にはな ると思 つた.
虽然我刚开始实施这个想法是在一个月前,但我开始动手的原因是因为我注意到了上述日期错误。我认为仅仅这一点就足以称得上是在做某事。
次は候風地動儀の複製 であ る.其 の構造の内容は不 明であ るが,其 の外觀 と機 能の解説 とによつて それが概 ね推測せ られ る氣持がす る.服 部 さんが畫工 を して之 を畫か しめたのは明治8年 の こと今 日其の外觀まで も此の畫の通 りに作つ て見 ることは望 まし いことだが,併 し8個 の龍 と8個 の蟾蜍 とを作 るだけで も相當の費用 を要す るであ らう.出 來 るな ら完全な もの として其 の作品の一つ を北 平或 は南京の地震 觀測所へ も贈 りた い位に思つてゐる.止 む を得なけれ ば外部 の裝飾的な部分 を省略 して も良いであ らう.
接下来是候风地动仪的复制。虽然其结构的细节不明,但通过外观和功能的解释,大致可以推测出来。服部先生在明治8年绘制了这个地动仪的图样,今天甚至可以根据这个图样制作出外观。然而,仅制作出八条龙和八只蟾蜍就需要相当的费用。如果可能的话,我希望能够将其中一个完整的作品赠送给北平或南京的地震观测所。如果有必要,可以省略外部装饰部分。
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今其 の機能の解説 によ りて内部構造 を想像 して見 る.銅 壺の葢 を外づ して器械 を調節す る仕掛 け と,一 龍だけが丸を落 して他の ものに異状がないこと,さ うして 其 の一龍の方位か ら震 原の 方向が推 定 され ることか らして,器 械 の要部 は倒立振 子であ り,丸 を落 す爲に は地震動 の方向性が利用された ことが想像 され る.併 し外 に もつ と可い解 法が あ るか も知れぬ.若し讀者の示教が得 らるれば幸 であ る.
根据功能的解释,我们可以想象内部结构。通过移动铜壶的位置来调节仪器,只有一个龙能够滚动,而其他的则保持不动。根据这一龙的位置推测震源的方向,因此,仪器的关键部分可能是一个倒立振子,地震的方向性可能被利用来使球体滚动。然而,也可能存在其他解决方案。如果读者有更好的建议,那就太好了。
張衡地動儀 の機能の第一要素 は地動の方 向に依つて震原 の方 向を察知する點にあ るが此れ は地震動の方向性 に關す る進んだ知識 を有たない限 り,解 し難 い事項 である.張 衡は恐 らくは主要動 を利用 したであ らうが,或 は初動 を利用 したか も知れぬ.地 震 の初動 の方向 に關す る研究 はウ ォーカーで はな く大森 博士だ などと今 日猶 ほ論議 してゐる 位 であるが,案 外1800年以前 に張衡が調べて ゐたか も知れ ぬ.陽 嘉元年 に創 めて地動儀 を作つたのは,愈 々其の機能 を確認 してか らの後の事 であ らうか ら,之 に先だつ幾年月の星霜 を研究に費 したで あら う.張 衡 は永和4年(西 紀139年)齡63歳 で歿 してゐるか ら,地 動儀 完成 は彼の56歳 の時 に當 る譯 である.
张衡地动仪的功能的第一个要素是根据地动的方向来判断震源的方向,这是一个需要具有先进地震动方向性知识才能解决的问题。张衡可能利用了主要动或初动来实现这一功能。关于地震的初动方向的研究,直到今天还在争论中,例如,大森博士而不是Walker。但意外的是,在1800年之前,张衡可能已经进行了调查。阳嘉元年创造地动仪,很可能是在确认其功能之后,这需要花费几年甚至几个月的时间进行研究。张衡在永和4年(西历139年)去世,享年63岁,因此地动仪可能在他56岁时完成。
次は張衡 の傳記 を調 べて見 ることであるが,此 れ は後漢書張衡傳 を繙讀して見るのが早手廻 しである.此 の傳 記は可な り浩翰な ものであるか ら,其 の吾 々に感興 の深 い部分だ けを抄録 する ことに した.(吾 々に解 り易 くする爲,島 谷孝 信氏 に依頼 して假名 交 り文に直 して貰つた.)
張衡傳第 四十九 後漢書五十 九
下一步是研究张衡的传记,而最快的方法是阅读《后汉书·张衡传》。由于这篇传记相当庞大,我们决定只摘录其中我们感兴趣的部分。(为了方便我们理解,我们请岛谷孝信先生将其转换成了假名交叉文。)
张衡传,后汉书第四十九,五十九。
張衡字 は平子南陽 西鄂の 人な り.世 々著姓た り,祖 父堪は蜀郡の太守.衡 少 くして善 く文 を屬 る,三 輔に游び 因て京師 に入 り大學 を觀て遂 に五經に通 じ六藝 を貫 く,才 は世 に高 しと雖 も而 も驕尚の情 な く常 に從容淡靜 にして俗 人に交接す るを好 まず,永 元中に考廉 に擧げ られ しも行かず,連 りに公府に辟 さるれ ど も就かず.時 天下承平 日久 しうして王侯 よ り以 下踰侈せ ざるはな し,衡乃 ち班固の兩都 に擬 して二京の賦を作 り因て以 て諷諌す,精思 傅會 し十年 に して乃 ち成 る.文 多きが故 に載せず.大 將軍〓隲其の才を奇 な りとし累 りに召せ ども應ぜず.衡 は機巧 を善 くし尤 も思 を天文陰陽暦算に致 し常 に玄經 を耽 好す.崔 〓 に謂つて曰 く吾 太玄を觀 て正 に知 る子雲 妙に數を道 ふ を極 む と,乃 ち五經 と 相擬 し,徒 に 傳記の 屬の みにあ らず,人 を して陰陽 の 事 を難論 せ しめ,漢 家天下 を得 た る二 百歳の書な りと.復 た二百歳 に して始 ど將 に終 らん とす るか と.作 者の數必ず一世に顯は る所以は常然 の符 なればな り,漢 四百歳 に して玄其れ興 らん と.安 帝 雅に衡が術學 を善 くす と聞 き公車 にて特 に徴 して郎 中に拜 し再遷 して太史令と爲 す.遂 に乃 ち陰陽の妙 を研覈 して〓機の正 を盡 し渾天儀 を作 り,靈 憲算 罔論 を著はす,言 甚だ詳明な り.順 帝 の初.再 轉 して復た太史令 と爲 る.衡 は當世 居 る所 の官を慕 はず輙 ち積年徒 らず,史 職 を去 つてよ り五載に して復 た還 り,乃 ち客問 を設 け應 問を 作 り以 て其の志 を 見はす と云ふ.(中略)
张衡,字平子南阳,西鄂之人也。世世着姓,祖父堪为蜀郡太守。衡少而善于文,三辅游历后入京师观大学,遂通五经,贯六艺。才虽高,却不骄尚,常从容淡静,不喜与俗人交往。永元中考廉举不行,连次辟公府不就。时天下承平久,王侯以上无不奢靡,衡因仿班固创作二京赋以諷諌,精思傅会十年而成,文多故未载。大将军隽其才奇,屡次召而不应。衡善于机巧,尤好天文、阴阳、历算,常耽于玄经。崔说:"吾太玄观者正知子云妙数道所极,乃与五经相拟,徒传记属不止,使人难论阴阳之事,汉家天下得之二百岁之书也。"复又二百岁而始,当将何终也。作者之数必一世显,常然之符也。汉四百岁而玄其兴。安帝雅闻衡术学善,特征于公车,拜为郎中,再迁为太史令。遂研究阴阳之妙,造渾天仪,著灵憲算,言甚详明。顺帝初再转为太史令。衡不慕当世之官,積年徒,史职去五载而复还,设客问以见其志。
陽嘉元年,復 た候風地動儀 を造 り,精 銅 を以 て鑄成す,圓 徑八 尺,合 葢隆 起 し形酒尊に似 て飾 るに篆文 山龜鳥獸の形 を以 てせ り,中 に都柱 あ り傍に八道 を行 り關 を施 し機 を發せ しむ,外 に八龍 あ り首 に銅丸 を銜 め下 に蟾蜍 あ り口を張 りて之 を承 け しむ.其 の牙機 は巧 に制せ られ皆 隱れ て尊中 に在 り,覆 葢は周 密に して際な し,如 し地動 あれば尊 は則 ち振 ひ龍 の機發 して 丸を吐 き而 して蟾蜍 これ を銜む,振 聲激 しく揚 る,伺 者 これ に因て覺知す,一 龍機 を發 す と雖 も而 も七首 は動 かず,其 の方面 を尋ねて乃 ち震のありし所 を知 る,之 を驗 するに事 を以て し合契 すること神 の若 し,書 典に記す る所 よ り未 だこれ あ らざるな り.嘗 て一龍の機 發 して而 も地 は動 くを覺えず,京 師の學者 は咸其の徴 な きを怪 しむ.後 數 日に して驛至 る,果 して地隴西に震ふ,是 に於て皆其の妙 に服 す,こ れ よ り以後乃 ち史官を して地動の方に從つ て起 りし所 を記せ しむ.(中 略)
阳嘉元年,再造候风地动仪,以精铜铸成。其圆径八尺,合葢隆起,形似酒尊,篆文山龟鸟兽形装饰其中,中有都柱,旁有八道,设关以发机。外有八龙,首銅丸銜之,下有蟾蜍,张口承之。其牙机巧妙制作,皆隐匿于尊中,覆盖周密无瑕。如地动,则尊将振动,龙机发出丸,蟾蜍将其銜之,震声激扬,观者由此得知,一龙机发而七首不动,可据其方向知震所在,验证之则神奇,尚未记载于典籍。曾有一龙机发而地未动,京师学者皆怪之。数日后有驿至,果然地隆西震,此后史官皆从事地动之记载。
永 和の初出て河間の相 と爲 る.時 に國王 は驕 奢に して典憲に遵 はず,又豪右多 く共 に不軌 を爲す,衡 車 を下 り威嚴 を治め法度 を整へ陰かに姦黨の名姓 を知 り一時 に收禽せ り,上 下 肅然稱 して政理 と爲 す.事 を視 ること三年.上 書 して骸骨 を乞 ふ,徴 して尚書 に拜 す年六十二.永 和四年卒す.周官 訓詁 を著 はす,崔 〓以爲 らく諸 儒に異 なることある能 はざるな りと,又孔 子の易説彖象の殘缺 せる もの を繼がん と欲 して竟 に就 る能 はず.著 はす所詩,賦,銘,七 言,靈 憲,應 問,七 辯,巡 誥懸 圖,凡 三十二篇.永 初中に謁者僕射 劉珍,校 書郎劉〓〓 等東觀 を著作 し漢記 を撰集 す因て漢家の禮儀 を定む上 言 して衡が其の事 に參論せん ことを請ふ,並 び に卒す るに會 して而 も衡 は常 に歎息 し之 を終成せん ことを欲 し乃 ち侍中 と爲 り上疏 して專 ら東觀 を事 と し遺文 を收 檢 して力 を畢ふ まで 補綴 するを得ん ことを請ふ.又 司馬遷班 固が叙す るところ典籍 と合 はざる もの十餘事 を條上 す.又以爲 らく王莽 の本傳 には但だ應 に簒の事 を載すべ きのみ,年 月を編 し災祥を紀すに至 ては宜 しく元后本紀 に爲すべ しと,又 更始居位 の人に 異望なし,光 武 は初 よ り其の將 とな り然 も後 に眞 に即 け り,宜 しく更始の號 を以て光武の初 に建つべ しと.書 數 々上 りて竟 に聽かれ す.後 の著述 に及びては多 く典を詳 にせず時 人之れを追恨 す.
永和元年初,出任河间相。当时国王奢侈,不顾典章,又有许多豪右不守规矩,张衡驾车下乡,以威严治理,秘密探知奸党名姓,一时收拾,上下肃然称道,政治清明。三年后上书请求骸骨,被征为尚书,年六十二,永和四年卒。著有《周官训诂》,崔说认为其与儒家异端,不愿继承孔子《易》之不完整。所著有诗、赋、铭、七言、灵憲、应问、七辩、巡诏悬图,共三十二篇。永初中,謁者僕射刘珍、校书郎刘〓〓等编纂东观文献,撰集汉记,衡因此论礼仪,同时上疏专责东观事务,检阅遗文,力求完善。又整理司马迁班固所未纳入的十余事。并认为王莽传仅应记述篡位之事,编年纪灾祥宜收录于元后本纪。更始时期无人异见,光武初封号宜以更始为光武初,书数次上呈,终获听许。后世繁华,书籍繁多,但未详细考述典籍,时人对此感到遗憾。
論 に曰 く崔〓の平子 を稱 して曰ふに數術 は天地 を窮 め制作は造化 に〓 しと.斯 の致得て言ふべ きか.其 の圍範,兩 儀 を推すに天 地 も其の靈を蘊む所 な し.情 を機物有生 に運 らす も其の智 を參す る能 はず.故 に智は淵微を引かん と思ふは人の上術な り,記 に曰 く徳成つて而 して上,藝 成つて而 して下.斯 の思 を量 れば豈に夫れ藝 のみな らんや,何 の徳か之 れ損せんや.贊 に曰 く三才理通ず るも人靈 は蔽多 し.近 く形算 を推 し.遠 く深滯 を抽く,玄 慮あ らずんべ孰か能 く昭晰せん.
论曰,崔〓的平子之称,数术穷天地,制作造化。言及此,何其深邃。其围范,推理两仪,天地皆蕴其灵。情绪驱使物有生,智慧参与运行。因此,智慧引导微妙,乃为人上之术。记载称德者登高,技艺成就者降低。此思考,岂止于技艺,何德不受其损?赞曰,三才理通,然人灵蔽多。近者推算,远者抽象,玄虑未明者,孰能显晰?
これ で見 ると張衡は學徳共 に高 く,特 に暦算 易學に通 じ天文學 には前 人未發 の業績 もあつた樣推 察 され る.上 田穰博士著 「石氏易經の研究」にも張衡の銅儀が引用 してあ る.渾 天儀 には觀測器械 と天球儀 との二樣の區別が あ るら しく,張 衡 のは寧 ろ前者 であつて靈憲算罔論(罔 は網に通ずと)は星經 に近 い ものではなかつた らうか.併 し乍 ら吾 々に取つて最 も興味 を感ずるの は即 ち候 風地動儀 の發 明である.余 は天文學 には全 くの素 人である.從 つて彼の前 人未發 の業績 に就 ては天文學に關す る限 り單 に推察 に止まるの であ るが,地 震學 に關 しては其 の地動儀の發 明が前 人未發 の ものたることには一點の疑が ないのみ な らず,其 後凡そ1600年 の間,其 の業績を記述 した人す らなか つた と言つて も過言ではあ るまい.
根据这个来看,张衡在学识和道德上都很高,特别是在历算易学方面造诣颇深,他的天文学成就也被推测为前无古人。上田穰博士的著作《石氏易经研究》中也引用了张衡的铜仪。据说浑天仪与观测仪器和天球仪有两种区别,张衡的仪器更倾向于前者,被称为灵宪算网论(网指天网),与星经有相似之处。然而,我们最感兴趣的是他发明的候风地动仪。我对天文学完全是个外行。因此,对于他前人未有之业绩在天文学方面的推测,我只能停留在纯粹的推测阶段。但是,就地震学而言,毫无疑问他的地动仪的发明绝对是前所未有的,甚至可以说在接下来的约1600年里,几乎没有人描述过他的成就,这并非夸大其词。
甘肅陜西の二省 は支那 に於 て地震活動の最 も盛 な土地 であ り,秦 か ら兩漢 に至 るまで其處に政 治の中心 もあつた爲,自 然張衡の發明 も出來 たのだら うが,次 の世代以後蒙古族の 占領 す る所 となつた爲,文 化の中心か ら遠ざか り,張 衡 の創 めた地震計測 も其 の儘立消 となつて,唯 僅 に書物に其事蹟 を録 す るに止 まつた ことは惜 みて も猶 ほ餘 りあ りと言 はね ばな らぬ
甘肃和陕西两省是中国地震活动最频繁的地区,因为自秦汉时期以来这里曾经是政治中心,自然也成就了张衡的发明。然而,在接下来的几代人之后,这些地区被蒙古族占领,远离了文化中心,张衡创造的地震测量器也随之消失,只有在书籍中留下了痕迹,这是令人遗憾的,但也只能如此。
張衡 は又數 多の優れた餘技 を有つ てゐた樣であ る.先 づ第一に文章 を善くした ことを數ふべ きであ らう.次 に治民 の手腕 をも備 へて ゐた らしい.河間の相 と して居 ること三 年,治 績が擧がつた ことを見 て も解 る.又 王莽の15年 間の纂位 を正統 と認 めてはな らぬとの議論 な ど硬骨振 りも想見せられ る.若 し彼 に して行政家 と して立 た とんとの希望 さへあつたな らば,此 の方面に於 て も相 當な地位 に進み得た人であつた らう.
张衡另外还拥有许多优秀的才能。首先,他被认为在文章方面非常优秀。其次,据说他也具备治理民众的才能。据说他在河间担任相职位三年,可以从他的治绩中看出。另外,他对王莽执政15年期间的统治是否正统的辩论也表现出坚定的态度。如果他也有成为一位政治家的愿望,那么在这方面他也可能会有相当的地位。
近頃余 は偶然に も董其 昌の筆 と稱す る一軸 を手に入れた.之 には次の七言絶句が認めてある.
鄭 子尚淹 秦 博士 張衡 不薄漢靈臺
因君重擧隋 崗事 覺 □新從楚〓來
近来我偶然得到了一支被称为董其昌的笔的作品。其中包含了以下七言绝句。
鄭子尚淹秦博士 張衡不薄漢靈臺
因君重擧隋崗事 覺 □新從楚〓來
幅 は現在で も可な りな大 きさであるが,そ れ で も上下左右 を切詰 めた形跡が あ り,結 句の 第二字の 如 きは 半分切 り取 られ,布 地 も缺損 してゐる爲,草 冠の文 字 ら しいだけが解 る.漢 文 の素養の乏 しい余 には此の詩が何を意味す るか解 らなか つたけれ ど も,張 衡 を禮讃 した承 句だけは讀 めたのと,今 一つには中學生時代董其昌の書 を習 ひ今 も猶 ほ其折本 を所有 してゐる位である爲,一 見其 昌の眞 蹟 らしい感 じが したので,之 を張衡 に縁 のない 人の手に渡 す を遺憾 に思 ひ,兎 に角,大 金(余 に取つて は)を 投 じて之を買つて置いた.其 の後之 を知 合の詩 人,漢學 者天文學 の先 生等に見て貰つた が,最 初 の二 句だけはど うや ら解 つた樣 で も,缺 字 と隋崗 事 とが どうして も解 らぬ.假 りに其の解 つた らしい部分 を註 して見 るな らば鄭 子(中 庸 や禮記 を註 した鄭玄)は 尚ほ秦 の博士た るに淹 ま り張衡 は漢の靈董(觀 象臺或 は纎緯學)を 薄 ん じなか つた君 に因て重ねて擧 ぐ隋崗の事覚 □新た に楚〓 よ り來 る或 人は各 自の第五字が盡 く國名に相當す ることを指摘 し何 か意 味が あ りさうだ と言つて居 られた.
虽然幅度仍然相当大,但上下左右都有被切削的痕迹,而且结句的第二个字「如」似乎被切去了一半,布料也有缺损,只能看出草冠的字样。因为我缺乏汉文的基础,所以对这首诗的意义不太清楚,但我能读出赞美张衡的承句,而且我曾经在中学时期学过董其昌的书,现在仍然拥有他的折本,所以一看到似乎是董其昌的真迹,我就感到遗憾,不愿将它交到与张衡无关的人手中,于是毅然投入大笔资金(对我来说)购买了它。之后我让一些诗人、汉学家和天文学家等朋友看过,但最初的两句似乎能理解,但缺字和隋岗事还是让我无法理解。假如要加上似乎理解的部分注释,郑子(注释过中庸和礼记的郑玄)似乎对秦代的博士仍然沉迷,而张衡则对汉代的灵台(观象台或纤纬学)不感到陌生,重提隋岗的事迹,意识到新来自楚地的人每个人的第五个字都对应着国名,似乎有着某种意义,他们这样说。
甚 だ妄斷ではあ るが,結 句の缺字 は或 は苑か も知 れぬ.幅 に殘つてゐる墨痕が其 昌の書 く苑字の行書 に當嵌 まるの も一 つ.覺 苑 とは覺苑長開智慧花(僧 清〓詩)と あ る通 り,心 の喩 と して詩 作に用ひ られ ることあるも亦根 據の一つであ る.一 層妄斷で はあ るが隋 崗の事 とは隋 侯の珠の故事を意味 して ゐるのか も知れぬ.隋 侯曾 て野外に於て(崗 は岡の俗字)傷 ける蛇を見,藥 を塗つ て之 を助けた所,蛇 其の恩に報 ゆ る爲,或 ろ夜寶珠 を口に喞んで來 て隋 侯に上 つた といふのが其 の傳説 である.張 衡の地動儀の要部を指摘 してゐるやに感 ぜ られ ない こと もない.結 句は張衡の二京の賦(或は思 玄賦)を 指 し其 の精神が楚の はたけ(屈 原の楚辭)か ら來た との意味だ といふ説者 もあ るが,若 し果 して さうな らば絶句の全篇 が張衡 を禮讃 した ことにな る.
虽然这是相当的妄断,但结句的缺字或许是"苑"。幅上残留的墨痕正好与其昌的行书"苑"字相符。"觉苑"就是指觉苑长开智慧花(僧清所作),正如所说,它是一种比喻,用于诗作中,也是一种根据。虽然这是更进一步的妄断,但"隋岗的事"也可能指的是隋侯珠的故事。传说中,隋侯曾在野外("崗"是"岡"的俗字)看到受伤的蛇,涂上药来救治,蛇为报恩,有时晚上会口中叼来珍珠送给隋侯,这就是传说中的故事。这也不排除与张衡的地动仪的关联。结句可能是指向张衡的"二京赋"(或者是"思玄赋"),有人认为其中所蕴含的精神源自楚地的作品(比如屈原的楚辞),如果果真如此,那么整首七言绝句都是在赞美张衡。
董其昌は明朝の學者,官 禮 部尚書に至 る.最 も書 を能 くし特 に楷行に妙を極 む としてある.崇 禎9年(西 紀1636年)83歳 で歿 したか ら,今 年は丁度300年 に當る.こ れ も亦一奇 とす るに足 るで あ らう.
董其昌是明朝的学者,曾任礼部尚书。他以书法最为擅长,特别是楷书更是妙绝。他于崇祯九年(西历1636年)逝世,享年83岁,今年正好是他逝世300周年,这也是一个奇迹。
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